ななめちゃんとの内緒話

最強にして最高

#6 多様性って何?“理解される側”の私たちへ

最近肌寒くて、お散歩しながらチャイティーラテばかり飲んでいます。

学生時代はフラペチーノをあんなに通って飲んでいたのに…あの頃の味覚と思い出は一緒に飲み込んでしまったみたいです。
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ななめです。

最近全然更新できてないのに、立ったさっき書いていた別データが消えて1人で呆然と立ち尽くしてしまいました。

 

仕事以外でもぼちぼち書いていきたいんですけど中々難しいですよね。

 

そういえばなんですが、人の噂も七十五日というというかなんというか、職場でのアウティングされたことからかなり場は落ち着いてきたかなぁというこの頃です。

ですが、よくある展開が例に漏れず今回も始まったので、その話をしようかなと思います。

職場でアウティングされたって話は、詳しくは3にあるので暇があれば…

#3 LGBTを職場でアウティングされて - ななめちゃんとの内緒話

 

 

理解される側の私たちへ

自分の性的志向がバラされるって状況、実は初めてでもなかったりします。

こういう時って、

 

「ななめちゃんってそっち側なんだ!」

「へ~そうなんだ」

 

こうなることはまず無かった。

大体二言目に口をついてでるものは

 

「え~もったいない!!」

 

「じゃあ更衣室とかパラダイスじゃんw」

 

「私そういうの理解あるから色々わかるよ!」

 

この辺だ。

特に、「私そういうの理解あるから色々わかるよ」って言葉への正しい答え方が、未だに分からない。

 

“そういうの(私のこと?)”

“理解あるから(私は理解されるべき存在?)”

“色々わかるよ!(今まで一緒に居たのにこれから新しく何がわかるんだろう?)”

 

えっちゃん(仮名)のことが大好きだったから、心の中にギュウギュウ押し込んで、「助かるよ」とだけ一言言った。

 

今なら言える。

理解があるよ、なんて、まるで私たちとの間に大きな境界線が出来てしまったみたいだねって。

理解してほしかったんじゃないよ。

えっちゃんとの恋愛話に、嘘ついて盛り上がりたくなかっただけなんだ。

今までと変わらず、「私」と友達でいてくれたら嬉しいなあ。

 

 

 

多様性への理解ってなんや

 

今、世界では多様性が歌われ続けている。

ダイバーシティとか男女平等とか個性尊重とか、現代的でキラキラした言葉にみえるそれらは、使うだけで使い古しが最新のものに感じる役割を持つようになってしまった。

 

でも、その言葉の布を一枚剥いでみようものなら、剣をデタラメに振り回している老人がいるだけだ。

 

社会だってそうだ。

「弊社ではダイバーシティを尊重していて…」

「男女平等を目指して男女が自立した未来を…」

なんて現代的な響き。

その実、蓋を開けて見てみたら違っていたなんてことは往々にしてあるし、寧ろそっちの方が多い。

 

ゲイが両親にカミングアウトして、理解が得られて泣きながら抱き合う動画やストーリーは、形を変えながら何作も目にしてきた。

私たちは社会に「理解される側」として描かれていることは、事実としてはっきりと存在する。

 

言葉はファッションへ、理解はコンテンツで。

皮肉な言い方だが、「理解する側」の周囲には「理解される側」はいない。それか、声を上げていないだけだ。

 

そして、多様性を歌う人ほど、“多様性”の檻に閉じ込められていることに気が付かない。

自分の正義や道徳が許す範疇で許容できるものを多様性と呼び、その外側にいる想像にも及ばない人間たちのことは存在すら知らないまま、檻の中を世界と認識してしまう。

 

理解し難い思想をもった人間は?

 

自分に恋愛感情の矛先が向いたら?

 

人間以外に恋愛感情を抱く人は?

 

檻の中の一人一人に7色の服を着せて、これが多様性だ!と振り回して、見世物になっている姿が常に何処かで起きている。

 

そんな私は時々誰かの檻に入れられたり、外側で眺めたりしながら、誰も見ていない好きにこじ開けて逃げ出すだろう。

人からあてがわれた虹色の服を脱ぎ捨て、飛べなくてももがき落ちながら、違和感を内に抱え込んだまま。

 

私が私として歩くために。

 

多様性は理解じゃないよ。

住み分けだよ。

えっちゃん。